野澤直史 牧師

8/8/2012

今朝、あるミーティングである牧師先生の証をシェアさせていただいた。私自身も人づてに聞いたものなので誤差はあるかもしれないが内容としては以下だ。

ずっ と人の悪いところばかりを見ていたのがあることがきっかけに自分が一番の悪者なのではないか、と気付いた。大泣きした。神様にすがった。金曜日の夜でたま たま説教の準備も何もできてない週でお手上げ状態。安息日の説教ということで説教をした。説教した内容も覚えていないのか、教会員の人たちに対する懺悔 だったのか思い出せないがとにかく本人としては神様に本当に頼った説教だったらしい。自分ではダメだったと思ったらしい。

説教後、一人の教会員が歩み寄って来て言ったそうだ。「牧師先生、素晴らしい説教でした。お顔が光ってらっしゃいましたよ。」と。

顔が光るとは奇妙な話だが、私はモーセがモリヤ山に登った時の事を思い出さずにはいられない。モーセが神と時間を一対一で過ごした時その栄光のために山から下りてきたモーセの顔は光っていた。

またステパノが石で打たれた時のことも頭に浮かぶ。

使徒行伝7章55節―60節

しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そ こで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、 いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。こうして、彼 らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、 「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。

ステパノの顔が光ったわけではないかもしれないが、彼の品性はイエス様そのものだし本当に聖霊に満たされた本物のクリスチャンでなければ起き得ない事象である。それを思う時、その牧師先生の話とどこかダブる。

生 きていて顔が光くらい神と近くなる経験を切に願う。でもそれと同時に神と近くなることが目的となってしまう時、動機は何なの?と自分に問いかけずにはいら れない。顔が光る時、そんな時があるとすれば、きっと自分なんかどうでも良くて本当に神様に100%頼った時に、120%崇めたいって時に、寄りかかった 時に気付かないうちになっているんだろう、と。そうしたら自分に一切誇るものなんてない。そんな時神様の栄光は自然に溢れ出てしまう気がする。それってす ごい証だし、ある意味、究極の伝道だな、と。